玄想庵は「うなぎの寝床」?ー長い空間を活かしたご利用例ー
玄想庵にお越しいただいたお客様はよく「思ったより広いですね。」とおっしゃられます。
実際かなりの広さだとは思うのですが、そもそも皆さんのイメージの中に、「町家は狭い」という思いがあるように感じられます。
京町家の天井は当時の生活様式の基本が床座の姿勢で目線が低かったため、現代の家屋よりも低く作られています。しかも、明治後期までの2階の作りは、諸説ありますが防火対策と江戸時代に町人が2階から武士を見下ろすことを禁止していたことにより、1階より天井が低く塗り込めの虫籠窓のある「厨子二階」という様式が一般的でした。現代の家屋より高さが無いため圧迫感あり、狭い印象が生じやすかったようです。
玄想庵は明治後期から昭和初期にかけて流行した、2階の天井が1階並みの高さでガラス窓の「総二階」という様式なので、それだけでも多くの町家のイメージより広く感じられるのかもしれません。
また、京町家は「うなぎの寝床」と言われる奥行きある形が特徴の一つです。これは江戸時代、間口3間(1間=1.8m)ごとに間口税と言われる家屋税が課せられていたため、間口(通りに面した建物の幅)を5.4m以下に収め、その分奥に長く広い空間を作るようにする商家が多かったことに起因しています。
奥に向かってそれなりの空間があっても、幅が狭いと窮屈な印象になるのかもしれませんね。
京町家「玄想庵」は1946年創業の廣田紬の社屋です。「旧館」と私たちが呼んでいる部分は明治期に建てられた京町家で、廣田紬の社屋となる前は伊達締めの問屋さんが商いをしていたそうです。町家としては間口が広く、天井も通常より高めの豪華な造りで130年以上の時を刻み、補修や改修を繰り返しながら大切に守られてきました。(廣田紬についてはこちら→ https://hirotatsumugi.jp/)
そして実は、現在ガレージや事務所、大広間、撮影スタジオがある「新館」と読んでいる部分も、元は別の町家が建っていました。そこには間口一軒分程度ですが奥に電気屋さんやうどん屋さんを営んでいた方の住居など3戸の商家の暮らしがありました。奥に向かうスペースの長さを感じますね。
そこに住んでいた人たちがこの地を離れた後の部分に、従来の建物のイメージを崩さず、調和する意匠となるよう新館を増築された姿が現在の全形です。
ちなみにこの新館部分は昭和55年に増築されたものなので、新館と言いつつ40年以上が経過しています。旧館と比べると新しい印象ですが、それなりの時を過ごしてきた建物です。旧館部分よりも座敷の幅があり、かなり広々としています。
広さを活かして会議机と椅子ををたくさん置いてセミナーを開いたり、座卓を置いてワークショップをしたりと、多用途でご利用いただいています。
1階旧館部分については、「店の間」だった場所が現在ギャラリースペースとなっていたり、階段の位置が変化してたりもしますが、通り庭含め基本の間取りは変わっていません。そのため全ての襖や戸を外すと、いかにも「うなぎの寝床」らしい、かなり長い空間になります。
先日、その空間の長さを生かした催しが開催されました。
一つは「楮谷陽子藍の染色展」。
ギャラリーの天井から吊るされた大きな藍染作品「そして、これから」。その向こうにある空間がうっすらと透けて見え、奥の展示への期待が膨らみます。
奥に進むと壁だけでなく鴨居や衣桁にもタペストリーがかけられ、楮谷先生の世界観と藍染の美しさにに圧倒される…
奥行きがある京町家ならではの展示となりました。
もう一つはLCLホールディングス様が行われたショーイベント。
座敷の中央は空間を通路として空け、両端に出店ブースを構えたイベント中にショーが行われました。
控えめなBGMが流れる中、庭に面した奥座敷の雪見障子がスーッと開き、コスチュームを纏ったモデルさんがポーズをとりつつゆっくりと座敷をウォーキング。
ギャラリースペースの端でポージングの後、ゆっくりと戻っていく。
観客はギャラリー土間の部分に置かれた椅子に座り、やや見上げて鑑賞。
座敷からギャラリーまでをランウェイにするという今までに無い催しでした。
土間部分での鑑賞だと靴を脱がずにいられて、窓を開けておけば外からもショーの様子が見られるため、通りすがりの人がふと足を止めて見ていく様子もありました
長い空間を活かしたお部屋の使い方と、格子窓越しにちらりと見える町家内部のイベントというシチュエーションにも可能性を感じました。
うなぎの寝床「京町家」ならではの長〜い空間を活かした展示やイベント。
どんな発想でどんな空間が生まれていくのか、今後も新しい世界との出会いが楽しみです。
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