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楮谷陽子 藍の染色展–布とのたわむれ–続報

11月7日(木)〜11日(月)の5日間、楮谷陽子さんの美しい藍染作品が玄想庵ギャラリーにて展示されました。
楮谷陽子先生は、嵯峨美術大学染織専攻科修了後、絞り造形作家である早川嘉英氏に師事し、2007年には日本新工芸展入選、日本新工芸展賞受賞以後毎年入選、全関西美術展入選第2席受賞、日展入選など、数々の入選と受賞を獲得しつつ、意欲的に作家活動を続けられています。
企画展は、日本新工芸展で東京都知事賞を受賞した大作から日常生活に彩を添えてくれるテーブルセンターやタペストリー、思わず手に取って身につけたくなる優しい風合いのストールなど、心がときめく素敵な作品たちとの出会いとなりました。
DMの写真として使用された「そして、これから」というタイトルのタペストリーは、日本新工芸展で東京都知事賞を受賞した大作で「それぞれの思いあう心を大切にしながら、少しでも楽しいことを取り入れて、心解き放って進んでいきたい」という気持ちが込められているそうです。



うなぎの寝所と呼ばれる京町家の奥行きある空間。
ギャラリー側から奥に進むごとに表情を変えていく藍の作品たち。

時間帯によって変わる光の加減でも雰囲気が変化していきます。どの作品からも、古くから日本人の日常に寄り添ってきた藍染の持つ多様な表情と、藍染の可能性を追求し続ける楮谷先生の情熱が感じられました。
藍染の歴史を遡ると、世界的には紀元前3000年頃のインダス文明の遺跡から藍染の染色槽跡と考えられるものが発見されています。日本では奈良時代に中国から朝鮮を経由して伝わり、栽培されるようになりました。藍はその深い青の美しさで生活を彩るだけでなく、薬草として庶民の暮らしを支えるなど、日本人の文化に深く根付きました。江戸時代には作業着から高級衣装、火縄銃の縄にまで藍染が施されたそうです。その後も国鉄や郵便局の制服に藍染の布が使用され、暮らしの基本色として町中の至る所で藍染が見られたため、明治初期に来日していたイギリス人科学者ロバート・ウィリアム・アトキンソンが藍色を「ジャパン・ブルー」と呼んで賞賛しました。
現代で「ジャパン・ブルー」と言えばサッカー日本代表のユニフォームが、真っ先に思い浮かびそうですが、その呼び名のルーツは藍染だったのです。明治後期になると安価で染まりやすいインド藍や合成染料が登場し、国内の生産量が激減したうえ、第二次世界大戦中には藍の栽培自体が禁止され、一時期はこの文化が途絶える寸前でした。しかしそれを絶やすまいと命懸けで藍の収穫を続けた日本人がおり、現在もなお藍の栽培や藍染の伝統が受け継がれています。

楮谷先生は天然灰汁発酵建本藍染という方法で染めておられます。これは藍の原料であるタデ藍の葉を収穫して乾燥させたものを蔵で寝かせた後、3、4日ごとに水を打ってよく湿らせながら上下に撹拌し、約100日間発酵させ再び乾燥させてやっと使うことのできる「すくも」と呼ばれるものを、さらに灰汁と石灰で練り、長い日時をかけて発酵させて作った染液で染めていく、というものです。
「いい色だして…」と語りかけながら藍と向き合うのだそうです。
日本人に愛され、世界からも認められ、日本文化に深く根付いてきた藍染を探究し続ける楮谷先生。
企画展は終わってしまいましたが、実はその作品の一部を現在ギャラリースペースでご覧いただけます。美しい藍染の世界、ちょっと覗いてみませんか?

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